植物は私たちの「体の外にある肺」ということもできる
繰り返しますと、宇宙の研究でわかったことの第1番目は、すべては一つのものから生まれ、根源は同じであるということです。それでは第2番目にわかったこととは何か……。これは、第1番目にわかったことと関連していますが、同じものから生まれたのであれば、顔つきは違っていても、あるいは様相は違っていても、お互いにかかわり合っているはずだということです。つまり、独立して存在しているものは何一つなくて、すべては、お互いに関連して絡み合っているはずだということです。
一つの例でお話ししますと、私たちは空気中の酸素を吸って生きています。空気中の酸素を吸って、それを血液の中に入れる交換機の役割を果たしているのは、私たちの身体の中にある肺という部分ですね。そして私たちは、その酸素からエネルギーを得て仕事をして、その結果、生成された二酸化炭素をさらに血液の中から空気中に戻す。これも肺の役割ですね。
酸素を吸って二酸化炭素を排出することで私たちは生きていますが、その二酸化炭素を、再び私たちに必要な酸素に戻してくれるのは、樹木、あるいは植物です。つまり、私たちが排出した二酸化炭素を取り込み、太陽の光、水の助けを借りて、私たちに必要な酸素につくり変えてくれるのが植物の役割ですから、ある意味からいえば、樹木、植物とは、私たちの体の外にあるもう一つの肺であると考えてもいいということです。これは決して宗教の話でもなければ、哲学の話でもない、純然たる科学の視点です。
この例からもわかるように、私たちは独立して生きることはできなくて、実はまわりとのかかわりの中でしか生きられないということですね。では、命はだれのものか。これは小学校での私の授業の導入でよく話すことなのですが、「命はだれのものなの?」って聞くと、ほとんどの子どもが「自分のものだよ」と答えます。果たしてそうでしょうか。
私たちは「生かされている」ということ
たとえば、生きるためには心臓が動いていなければなりません。あるカトリックの小学校で行った私の授業では、「神様にお祈りをして、心臓さんを止めてみようよ」というところから始めたことがあります。純粋な子どもたちは、少しでも心臓さんのテンポが遅くなることを願って、一所懸命に祈りをささげますが、さて、その結果はといえば……、心臓は、止まらない。なぜだろう?
止めたいと思うけれども止まらない心臓……。いったいこれはどういうことなんだろう? そうか、つまり心臓さんは、動きたいんだよねー。じゃあ、心臓さんには心があるのかな? そこはよくわからないけれども、ぼくが止めたいと思っても心臓さんが止まってくれないということは、だれかが心臓さんを動かしているということなのかもしれないね。そのだれかって、いったいだれだろう? ここで、自分は自分以外のものによって生かされているんだということが彼らにもわかってもらえるわけですね。
もう一つの例です。どうして痛みがあるんだろうか。もし痛みがなかったとしたら、傷ついたということも、傷の位置もわからないから、大変なことになってしまいますね。痛みというものは、いやなものではあるけれども、痛くならないように気をつけようという一つの警戒信号だともとれるわけです。世の中、つまり宇宙は、このように、一つの事柄であっても、相反するような性質がお互いに作用しながら成り立っているということなんですね。
ですから、先ほどの命の話に戻りますけれども、だれのための命かな? と考えたときに、自分のことは自分でわからないし、もし私が一人で無人島にいたとしたら、自分の存在の意味がありませんよね。人間には、だれかの役に立ちたいという思いが潜在的にあるわけで、なぜそれがあるのかといえば、当然、命は自分のものではないということが前提にあるからだと私は思います。
おなかが減った人がいたらパンをあげる。そうすると、「これで生きられます」と相手が喜んでくれたときに、うれしいのはだれですか? 相手はうれしいでしょうけれども、やはり自分もうれしいでしょう。ところが、パンが1つしかないとき、全部相手にあげてしまったら、自分がひもじくて死んでしまう。そこで、死にたくないから、人にはあげたくない、というエゴというものが出てきます。では、エゴを徹底的になくすことがいいことなのかといえば、エゴがなくなったら、人のためになることもできなくなってしまう。そのエゴといかに折り合いをつけるかというところに、人間本来の難しい選択があって、そこに出てくる考え方の一つが中庸です。仏教の中に登場する典型的な考え方ですね。
すべてが相反するもののバランスによって成り立っている
また話をもとに戻しましょう。何度も繰り返しますが、宇宙の研究でわかったことの第1は、起源において同一であったということ。そして第2は、すべてはかかわり合っていること。しかも相反する作用が拮抗しながらバランスをとることによって、すべてが存在しているということが大事なポイントです。一例をお話ししましょう。
私は今、こうして椅子に座っています。どうして座っていられるのか。これは地球が引っ張っているからです。では、地球が引っ張っているのだったら、なぜ私は地球の中心まで落ちないのか。それは、椅子が私を、地球が引っ張っている力と同じ大きさの力で反対向きに押し返しているからです。つまり、私が座っていられるのは、地球が中心のほうに引っ張り降ろそうという力と、椅子が私を支えようとする反対の力が釣り合っているからですね。
実は世の中というのは、すべてこの相反するもののバランスによって成り立っています。善と悪もそうです。たとえば、親鸞聖人が『歎異抄』の中で、「善人なをもて往生す、いわんや悪人をや」といっていますね。私たちの常識では、悪人だって極楽浄土に行けるんだから、善人が行けないはずはないだろうと考えますが、親鸞さんは「違う」といっているのです。「善人でさえ極楽浄土に行けるのだから、悪人が行けるのは、至極当然ではないか」といっているのです。
ここで、親鸞さんは、善とは何か、悪とは何かという根源的な問題を突きつけています。弁護士という非常に不思議な職業があります。どちら側につくかによって、善と悪を反転させて考える。それを論理づけていくのが弁護士の仕事です。善と悪がひっくり返るというおもしろい例をもう一つお話しします。小学校6年生を対象に行った私の授業でのひとこまです。
あなたが、ある人にとって善だと思っていたことが、突然悪に変わる。そういう例を考えてごらん、という課題を出したときに、ある1人の女の子が話してくれた事例です。
私のお母さんは、本を読むことが大事だといって、たくさん本を買ってくれます。だから、私が本を読んでいるとお母さんはとてもうれしそうで、「いい子だねー」とやさしくしてくれます。ある日のこと、「今お母さん忙しいから、お手伝いして」というお母さんの声が聞こえました。私は考えました。私は今、お母さんにとって善であるはずの読書をしている。だからといって、お母さんが「お手伝いをして」といっているのを断ったとしたら、どうなるのだろう。本を読んでいるという善が、お母さんにとって、突然、悪に変わってしまう。そこで、何がいいことで、何が悪いことなのか、わからなくなりました、という話です。
いかがでしょう? おもしろい話です。本を読むという善としての行為が、突然、悪に変わる瞬間なんですね。これをどういうふうに考え、折り合いをつけていくかということが人生の大きな課題というか、試練です。世の中でいう善悪の難しい構造の一端です。
宇宙は生き延びるために巧妙な方法を使ってきた
相反する存在としての男性と女性を考えてみましょう。遺伝子の中の第23番目の染色体。XXが女性ですね。宇宙は最初に女性をつくりました。なぜでしょうか。簡単だからです。同じものをそろえるのは非常に簡単ですからね。それで、女性は、次々にコピーを産み出していく。つまり、無性生殖ですね。
宇宙にとっては、最初は女性だけつくっておけばよかった。しかし、たとえば、気候変動などがあって一人の人がかぜをひくと、同じコピーだったら全員がかぜをひいて、滅亡してしまうかもしれない。「これではまずい」ということで、神様はコイン投げをした。XXのXの一つをYに変えたものをつくりました。それで、XXという女性と、XYという男性を適当に混ぜて、少しずつ性質を変えることによって、何かが起こったときに命が途絶えないようにしたということですね。有性生殖です。コイン投げをするときに、表か裏かは、確率が2分の1で起こりますから、男性の数と女性の数はほぼ同じになっています。
そのように、擬人的にいってしまえば、宇宙は、自分が生き延びるためには非常に巧妙な方法を使ってきたわけですね。逆にいうと、そういう方法を使ったからこそ現在の宇宙は存在していると考えてもいいわけです。