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5月(皐月)の暮らし方
あべ山は、海沿いの平野の季節の流れと比べると、ちょうど2〜3週間遅れて巡ってきます。このところ九州や東京に出向いていたせいか、お山の自然が私の帰りを待っていてくれたようです。山桜も精一杯花を咲かせて見せてくれましたし、ユキヤナギの小さな白い花、スミレ、八重咲きの花モモなどが次々と綺麗な姿を見せてくれました。
その後を追いかけるように、樹木の芽吹きが始まりました。柔らかな緑色の葉の美しいこと、生命の息吹で山全体が覆われて、生きる喜びに満ちています。
それぞれの木に、それぞれの新しい生命の緑……緑という色の豊かな表情に感動する季節です。明るくさわやかな緑から、力強く萌え出た深い緑まで、この時期には日本の「緑」という色の豊かさを教えられます。
私たちの體(からだ)もこの時期は、新しい細胞の芽が育つ時期となります。植物たちは、水分も養分もたっぷり取って、組織に無理なく、新しい芽を育んでいます。私たちもそれにならって、ゆっくりと體を慣らしていく時期です。
昼夜の温度差もかなりある時期ですから、體を冷やしたり、十分に深い呼吸ができず、浅い呼吸ばかりを繰り返していると、せっかく芽生えた細胞の芽が育たずに消えてしまいます。
植物から、柔らかな瑞々しい酸素が作り出されているのも、生命の緻密なプログラムによるものです。それをちゃんと自分の體に取り込んで、新しい細胞を守りながら育てていくのが、この季節の暮らし方です。
また、代謝が活発になる時期ですから、生きたお水をたっぷり補給することも、とても大事なことです。水は、私たちにとって、まさに生命そのものです。人體の7割が水分であることは、どなたもご存知でしょうが、その水が生き生きとした水であることが、生命の活力に関わる重要なことにまではなかなか思い至れていないようです。
地球は水の星、しかもわが国は、その豊かな水の恩恵に満ち溢れた国です。四季のはっきりした気候が、潤いの雨によってもたらされ、その雨が山々の木々から地面に、さらにその地下に浸透して腐葉土やその下の土、さらに岩盤を通して何百年という歳月を掛けて濾過(ろか)され、岩清水や山の湧き水として、植物や私たち生き物の體を潤し、生命をも潤すことは、何千年も前から知られていることです。
しかし、環境が汚染され、水自体も消毒剤を加えられた現在、私たちが飲んでいる水は、生きている水とはいえない状態のものがほとんどです。生きた水でない限りは、哀しいことですが、老化が進んでしまいます。しかも、その水の摂取が少ないと、脳に与える影響も大きく、代謝の盛んなこの時期の脳は、オーバーヒートしてしまいます。この時期に、脳の変調を来たす方が多いのは、脳に新鮮な生きた水が供給されてない状態だといえます。
今の世の中には、ミネラルウォーターや浄水器が溢れかえっていますが、ぜひともその中から本物を見つけ出して、一人ひとりの生命を活性化させる水を、十分に取ってください。
生きた水は、私たちの生命を正しい状態に導き、季節季節で體が行わなければならない営みを活性化してくれるのです。
この世に生まれたことの意味
私たちは、何故この世に生まれてきたのでしょうか?
誰もが必ず自分の存在について、「何故?」という疑問を持ちます。自己形成の中で、あるいは、なんらかの問題に突き当たり、苦悩する中で、また体調がすぐれず、自分の健康に自信が持てなくなったときなどに「何故」という考えが心を占めてしまうことが多いと思います。
私は、生まれて間もなく母を亡くし、祖父母に育てられました。しかも、小さな頃から體が弱く、入退院を繰り返していました。自分を取り巻く境遇の中で、常にどうしてだろう、何故なんだろうと考え続けてきました。
しかも私には、生まれたときから、多くの人には見えないものが見える目と、人が聞くことのできない音や声を聞くことができる耳を与えられていました。何故を考える環境として、自分の置かれた環境は、まさに学びの連続でした。
私がこの世に生まれるまさにそのときに、眩しい光の中に神様がおられ、
「つらくても、苦しくても学びなさい。あなたは学ぶために、この世に生まれたのですよ。一生懸命に学んで帰って来なさい」
とおっしゃいました。
この世には、神様も仏様も、霊もいます。私たち一人ひとりにつながる祖先もいます。その中で人として生まれた私たちは、毎日起こるさまざまなことに向き合いながら、一つひとつの事柄から何かを学ぶために、この世に生を受けたのです。
地球はもとより、大宇宙もまた大いなる意思を持ち、私たちをより豊かな高みに引き上げるための学びのプログラムを用意してくれています。
緻密に張り巡らされた学びのプログラム、そのプログラムには一分の隙も、一切の無駄もなく、次々と学びのステージを用意してくれています。
人は不完全です。いろんな魂の段階の人が、この地球上に溢れています。悩み、迷いながら、また我欲にまみれたり、人を恨んだり、蔑んだり……人間の言動は、変化に富んでおり、それらが積み重なって社会を作り上げるのですから、間違った方向に組み上がることもあり得ます。今の社会や地球が悲鳴を上げているのを感じているのは、何も特殊な能力を持った特別の人ばかりではなく、多くの国の人々だったり、生き物であったりしています。
学びの段階も、それぞれが異なりますが、根本は「人として正しく生きる」ことです。一人ひとりが人として生きることの自覚を持つこと、そして自分の存在が生かされているということに気づくことから始まるのです。
学びは、勉強とは違います。起きていることすべての真実を知ることが人としての学びです。どう生きればよいか、どう生活すればよいか、またどのように考えればよいのか、何が正しくて何が間違いなのか……道理を見極めることが大切です。それが、この世に生まれた人としての学びとなるのです。
人として生きること
それでは、「人として正しく生きる」とは、どういうことなのかをお話ししてみたいと思います。
私たちは、一人では生きられない存在です。前回、私たちの體がすばらしい働きをしていると書きました。それはそのまま、自分と自分以外のもの、つまり主体と客体という立場そのものを教えてくれる師でもあります。
私たちが生きていくためには、空気や水、そして食べ物が必要ですが、それを人間は自らの力で作り出すことはできません。地球に空気があるのは何故でしょう? 豊かな水があるのは何故でしょう? この地球に生きているのは、人間ばかりではありません。植物も、鳥も、動物も、魚も、微生物もすべてが生きています。しかもお互いが密接に関わりながら存在しています。人の存在は、相対するものによって生かされているのです。
そして、それはそのまま大自然や大宇宙との関わりにもなっていきます。地球上の生命の営みは、宇宙のエネルギーの働きによるものです。
つまり、私たち人間も、壮大な宇宙から見れば、緻密につながった生命の輪のほんの小さな点に過ぎないのですが、その点の存在も、その體の中に宇宙を内包しているといえるほどの重要な存在でもあるのです。
物理的に生きていることを捉えると、空気や水、食べ物を摂取して、生命を存続させている一連の働きといえますが、心の働きはどうでしょう? 何一つ自ら作り出せないという人の存在は、いろいろなものや、命に支えられて生かされているということではないでしょうか?
生かされていることに気づく、そこに生じる感謝という心の働きを感じることから人としての学びが始まります。
今、お話ししていることは、一瞬の今を捉えて平面的に人の存在について、その存在に関わるものについてお話ししていますが、その一瞬一瞬がつながったときの流れという視点でも、捉え直すことができます。繰り返し繰り返し重ねられる人の歴史、その中にも、積み重ねられた生命の智慧が存在しています。
生命の智慧を学び、今を生きることに活かすこと、大宇宙から地球の営みに至る今の存在に感謝して生きること、それが人として生きるということです。
神様との出会い
私は、4回自殺を図りました。自分さえいなければすべてがうまくいく、円満に収まるのではと思い込んだのです。それが最良の解決法だという錯覚にとらわれていました。4回目のときに、大日如来の活霊であるサナート・クマラ(魔王尊)と出会いました。
「神は必要な人間か、そうでない人間かを試すために試練を与えてみるものだ。その天地の親の心を読み取ることができぬほどにお前はわからず屋か。大馬鹿者!」
一喝されて、私の心の目が覚めました。その後、この方からたくさんの智慧を授かりました。それが私の生き方や生活の仕方の基本になっています。
誰もが、あらゆる生命と調和しながら、自分の生命を正しく生きること、そのためにも健康であるということは、密接につながった真理でもあります。
自分が何を学ばなければならないかは、一人ひとり異なります。私もまた、人として生まれ、学びの毎日です。学びは、ありとあらゆるところに存在します。自分とそれ以外のすべてが、教科書であり、鏡であるのです。
私たちが生きるこの世界には、神仏も霊もすべてが存在して生きています。それらを勝手に解釈して、あるときは悪いことの起こる原因にしたり、祟っているから祓わなければと儀式を行ったりしていますが、神仏は、人が浄めなければならないような存在ではなく、霊もいろいろいますが、本来は人に何か悪さをしてやろうとなどとは考えていません。
神様は、「ここまで上がっておいで」と、日々学ぶ私たちを助けてくださるし、仏様も私たちの暮らしを静かに見守っていてくださいます。祖先や親族の霊は、励まし、手を引いて導いてくれようとすらしています。
私たち日本人は、最も神様の智慧のそばに生きていました。その智慧を親から子、さらに孫へと伝えつつ、学びの道を歩いてきていたのですが、産業革命や戦争などでその道が途絶えてしまいました。日本語の一つひとつの言葉にも意味があり、言葉を構成するアイウエオの文字にも深い意味があったのですが、それさえも伝えられてきませんでした。
戦後の教育改革や、経済の発展を優先したがために失われたものが、どれほど大切だったかを思うとき、途切れた心を今こそしっかりとつながなければ、この国の明日は不安に満ち溢れ、やがては消滅の末路を辿ることになるのかもしれません。
この世で学べよと送り出されたそれぞれの命。そして、一緒に生きるすべての命。お互いの存在に心を行き届かせながら、古の智慧に思い至り、その智慧を生かすことこそ、私たちが本来の生き方を取り戻す大きな力になるのです。
そのためには、神仏も霊も喜んで導いてくださるでしょうし、お力を貸してくださることでしょう。
生命(いのち)を生かし合うこと
私たちの存在が、他の存在とのバランスの上に成り立っていることは、繰り返しお話ししましたが、私たちの一瞬一瞬の言動すべてが大宇宙にまで影響を及ぼすものだとしたら、それぞれが、もっと心を遣い、注意深く、しかも豊かに楽しく自分の生命を生きていこうと努めるべきではないでしょうか?
浴槽に水を張って、静まり返ったその水面に、指をちょんとつけるだけで生まれた水の波紋は、浴槽全体に広がり、さらにふちに届いた波紋が、今度は指を目指して返ってきます。そしてその波はずっと運動を繰り返します。
生命を生かし合うことは、お互いの存在を知ることから始まります。お互い、つまり主体と客体、相対する存在を通してもう一度自分の存在を見つめることが大事です。主体も客体も固定した配役ではなく、常に私たちは、主体になったり、客体になったりしながら、生命の時を生きています。
すべての存在や生命に、思いを至らしめて生きることは、一瞬も気を抜けないことでもあるのですが、また、喜びに満ちた生き方でもあるのです。
現代に生きている私たちが忘れている生き方、どこかで伝わらなくなってしまった智慧が今、目覚めようとしています。
それは、地球が悲鳴を上げ、大自然が危機感を募らせ、大宇宙がそれに合わせて揺らごうとしているにほかなりません。人が我欲に走り、幸せだと信じて築き上げて来た世界、それは産業の隆盛を誇り、企業が利益追求に走って来た世界でもありますが、人以外の生命の犠牲や大自然を破壊し、大宇宙をも大きく傷つけるという恐ろしい暴挙の上に成り立ったものだということを考えることが大切です。そのような世界では、喜びに満ちた生き方などということは到底無理なことで、本当の豊かな生活、人としての本来の生き方を、今、取り戻すときが来ているのです。
日本人としての生き方
日本人は、その昔、本当にずっと昔は神様に近い、もしくは神様と同じ存在でした。つまり、すべての生命に思い至った生き方をしていた時代を生きてきた人種です。
歴史の中で埋もれ、意図的にその歴史すら改変され、さらに隠された智慧の存在があり、さらに大きな世界大戦の結果、アメリカやヨーロッパの価値観が手本とされ、政治や教育、暮らし方のすべてが変化を余儀なくされましたが、その無理な変化への綻びが今、この国のあらゆるところに出始めています。
この世の中は、陰と陽の2つの捉え方ができますが、どちらか一方に偏ることは、間違った方向に進むことを意味します。前章で主体と客体の話に少し触れさせていただきましたが、物事や事象のすべてを捉えるときにも、それらを見つめる視点は、常に両方を思い遣りながら、心を行き届かせなければ真実の姿は見えてきません。
さらに、そのふたつは綺麗に分けられるのかというと、そうではありません。たとえばコレステロールは、善玉・悪玉のふたつが取りざたされてきましたが、最近では、そのバランスを取る中性タイプのコレステロールも見出され、どのコレステロールも必要だということがわかってきました。条件次第で、善にも悪にもなり得る存在でもあります。しかし、全てが善玉になればよいのかというとそうではないのです。人の體の中は、微妙なバランスで成り立っていますから、善玉だけではうまく機能しないのです。悪玉があることで、善玉の働きが活発になるという相互の存在の意味が、そこにはあるのです。
コレステロールを含む食べ物が體に悪影響を及ぼすと騒がれ、摂取を控えた方も多いと思いますが、私たちの體の中で作り出すコレステロールの量が、摂取する量を上回るという事実もわかってきています。
さらに例を挙げますと、日本家屋は日本人の智慧の集合体でもあり、融通のきく建て方がされていました。木造や土壁のため、家屋自体が季節に合わせて呼吸をするからです。
湿度の高い季節は、木や壁が水分を吸い、家の中を人が暮らしやすい状態にしてくれますし、外気の温度の高い季節には、外からの新鮮な空気を取り込みやすいように、柱や壁に微細な隙間ができます。つまりは、家屋自体が呼吸していた、生きていたのです。
私たちが知っていることは、大宇宙や大自然の智慧に比べれば、ほんの小さな知識をすべてだと思い込んでいるに過ぎないのです。新しい技術や真理の発見で、知識の世界はどんどんと変化を遂げています。科学も医学もまだまだ解明していない生命の真髄が確かに存在しているのです。
それに比べて、生命の智慧は、豊かにリズムを刻みながら大自然とともに私たちに生きる道理を教えてくれています。
日本人の失いつつある智慧の伝承の力は、すべての生命とともに生きるという命の絆の上に成り立つものです。人として真理を求めて生きることは、その壮大な智慧との出会いの生涯となるのです。
私は、魔王尊から、
「神(神道)・仏(仏教)・儒(儒教)・基(キリスト教)を分け隔つるは、真諦(しんたい)にあらず」
と教えられました。すべての宗教がその根本で伝えようとしていることは、同じです。天の道・人の道・地の道、それぞれのあり方、生き方があり、その中で相対するものを理解しながら、学び取っていく生き方が人の道なのです。相対する存在に目を向けながら譲り合っていく生き方こそが、私たちが今、取り戻さなければならない人の生きる姿なのです。
天の道は、自然であり、時には他の命を奪うこともある存在ですが、自然は徒に命を奪うのではなく、自らの命を生かすために、あるがままに存在する姿を常としています。また、人の道は、すべての相対する存在に心を遣いながら、譲り合う道であるべきなのですが、残念なことに、現在は、我先にと欲に走っています。そして、地の道は、惜しみなく与える、すべてを与えるという存在で、それぞれの道は、さらに深く、複雑に噛み合って成り立っています。
ともあれ、それぞれの道で一所懸命生きる、天も地もまた、人にとっては、学びの舞台でもあるのです。
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